昭和四十三年十一月十五日
X御理解第二節
先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳ぢや。神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る。みてると言う事がない。
神徳を受けようと言うて信心を始める者は居りません。やはり、おかげを受けたいと思うて、信心を始める、皆んなそうです、教祖様でも、やはり、おかげを受けたいと思うて、神仏を拝まれた。
おかげを受けなければ信心はできません。第一、神様を信ずる事が出来ません、おかげを頂かずに、いかにも信じた様な事を言う人がありますね。神の絶対を説く人がありますね。
いわゆる教学者に多いですね、学問の上から神様を絶対のものとして説く。いかにも神様が分っても、おかげを受けてない。特に宗教学を研究する人達はとても私達が及びもつかない様な、神様について知っておる。知っておるけれども、おかげを受けていない。
神徳がどういうもんであるかも学問の上で、それが分かります。けれども、やはり神徳を受けてはいない。唯、分かっておるだけ。
ですから、やはり、おかげを受けなければ、神様を信ずる事は出来ない。神様をいよいよ信じて疑わない、と言うおかげを頂かなければ神様も信じられない。
いわゆる「信じ信じられる」ところに、御神徳と言うものがある。久留米の初代は、一言にして、それを言うておられますねえ、
神徳は神様の信用じゃから、
その石橋先生でも、やはり最初は、おかげを受けたいと思うて信心された、そして次々とおかげを受けられた。
そうして、どういうところが石橋先生は、神様から御信用を受けられたじゃろうか、神様を、いよいよ信じなされると同時に、神様もいよいよ信じなされた、ここには気易う、
神徳は、信心すれば誰でも受ける
事が出来る。みてると言う事がない。
もう五十年も信心しよると言う人達でも、これが、御神徳じゃろうかと言うのに、触れもしなければ、頂けてもない人が、たくさん有ります。
ですから、その人が五十年信心しとっても、その人の信心は「信心すれば」とおっしゃる信心ではないと言う事になる。
私は、信心させて頂く者は、信心にならないと、それでは五十年参ってきておっても、拝みよっても駄目だと言う事。信心するものが信心にならない、
信心する者は何事にも信心になれよ
とおっしゃる、信心になった時に、信心しておると言う事になるのですよ。教祖はそこんところを、ここではおっしゃっておると思うのですよ。
拝みよります、参りよりますと言うのは、だから、信心のうちには入らん、信心する者が何事にも信心になった時に、その人は信心と言う事になる。
そこで、日頃頂いておる御教えを、改めて頂くのでございます。信心とは、まず真心になれ、信心とは、いよいよそこから信じて疑わないところの心を強化する為の修行を本気でせよ、いよいよわが心が神に向うていくと言うのを楽しみに、いわゆる神心になると言う事。
神心にならせて頂いておる自分と言うものを、楽しみになる信心にならして頂かなければならない。
信心とは、その信ずる心を、いよいよ強化していく為に、修行を惜しんではならない。
そこから神様は、間違いないな、神様は絶対だなと言う心が頂けてくる様になる。
信心させて頂く者は、いわゆる真心にならなければいけない。今迄まで思うておった自分の真心と言うものを検討して、そして、これは真心だと思うておったけれども、真心ではなかった、気感に適う心ではなかった、と真心を追求あしていかなければならない。信心は真心の追求とまでいわれる。
真心、信ずる心、神心、ここのところの三つのものが、本気でならせて頂こう、あらせて頂こうと言うところに、信心があるのです、ですから、五十年信心しょっても。真心になろうとも思わない、神心になろうなぞ、考えた事もなおさらない、これではやはり誰でも受けられるとおっしゃる、誰でも受けられる神徳が、その人は受けられない事になる。
神徳を受けた方達は、皆んな、それなんですよ、大徳を受けられたと言う人達は、皆んな、そこんところを大事にしておいでられたんですよ。
さきの世までも持っていかれ、子孫までも残るものはとおっしゃるのは大変な事なんですよね、ですから、そういう大変な事に私共は本気で取組まなければいけないのです。
初めから神徳を受けようと言うて信心を始める者はないけれども、信心させて頂く様になって、こうして、こうして分からして頂くのじゃろうか、これは本気で神徳を受けようと思う様にならなきゃいけんのです。
そして神徳を受ける為には、信心にならなければいけない、信心はさして頂いておるけれども、真心になっていない、もう本当に、ここんところにくると、ごまかしも、なあにもきかんのですよ。
おかげの間は、ごまかしがきくのですよ、本当に神様は、だまされるのです。こっちがだまそうと思えば、ところが、御神徳だけは、そんな訳にはいかんです。
もう、これだけは、ごまかしも、なんにもききません。本気で私共が信心になろうと、発心させてもらい、本気でそれに取組ませて頂かねば、そこから本当言うたら、信心が好きになってくるのですよ、参れば参るだけ、おかげ頂くけんと言うのは本当の楽しみじゃないです。
「神徳は信心すれば誰でも受ける事ができる」とおっしゃるのですから、私共信心を、さして頂かなければいけない。
五十年参ったからと言うて、信心してきたと言う事ではない「信心する者は、何事にも信心になれよ」とおっしゃる、その信心にならなければならない。
そこで何事にも信心にならして頂く為に、三つに分けて、真心になれ、いよいよ自分の心が神様に向うていく神心を、有難い楽しいと思える信心を、さして頂かねばならん、そこを目指さなければならないと言う事になります。それを、久留米の初代は、
神徳は神様の御信用じゃから
と言っておられます。
私共が信心にならせてもらう時に、神様の心が動くのです。私共が何事にも真心にならして頂く時に、神様の御信用が段々増してくるのです。
そこに初めて神徳と言うものが、はゝあこれが神徳と言うものかと、思われる事になってくるのです。
神徳とは、一生懸命修行さえすりゃよかと、決して、そんなもんじゃない、水をかゝったり絶食したりと言う修行で得られるもんじゃない、それは神様を信ずる心を頂く為には、非常に良い事だと思いますね、修行すると言う事は、
ですから信心生活の上にです、全ての事に真心、いわゆる実意丁寧神信心なのです。実意丁寧神信心と言うのは、真心を抜きにしては役にたちません。それがもし真心をぬいておるとするならば、実意丁寧の化物です。
真心になったら、実意丁寧はついてくるのです、実意丁寧にせずにはおられんのです。
信心とは、わが心が神に向うのを信心と言う、
もう様々なチャンスをつかんでは、その事をとおして、いよいよ自分の心が神様のへ向いていく、いよいよ神様の方へ自分の心がすゝんでいく。
「わが心が神に向うのを信心と言うのじゃ」とまで、おっしゃってあるのですから、それが信心、そう言う信心を頂いての、信心すれば誰でも神徳を受ける事が出来る、しかも、みてると言う事がない、
そこでね、結論としてですね、そんなら神徳を受ける為には、どういう事にならねばならんかと、又、なるかと、私共の生活の上に、これは、神様の前にも人の前にも同じ事です。不都合、不行届があってはならない、いや、不都合、不行届がない生活に、ならねばならない、と言う事です。
不都合、不行届があっては、どの様な、よか信心しとたっちゃ、もう絶対、御神徳は受けられないです。これは人間どうしでもそうです。毛頭、不都合、不行届にその人がなったらですね、例え信用受けて居っても、もう、あの人は、つまらん、あの人は信用でけんと言う事になるのです。
どうでしょうかねえ、私共の日常生活の上に、不都合、不行届がないでしょうか、これは、神様だけじゃないですよ、あちらに不都合しよると分からして頂いたら、その事を、心から詫びる信心が必要、詫びる生活態度が必要、
不行届な事になっておったら、そこんところを、本気で詫びなければならない、厳密に言うと、私共、不都合、不行届だらけである。まして、神様の前には、そうであるけれども、これは対人間の場合であっても、「どこに不都合、不行届があるやら分りません、人間凡夫の事で相分からず」と神様の前には、それに、つとめさして頂くと同時に、それに詫びて詫びて、詫びぬかせて頂くと同時に、私共生活の全面にわたっても、不都合、不行届ができてはおらんか、もし自分で、それに気付いたらです、いかに自分が信心になってないかを知らにゃいけん。
信心する者は、何事にも信心になれよ、とおっしゃってあるのに、何事にも信心になっていない証拠なんです。もう不都合、不行届があったら、その人は、どんなによい信心をしよるごとあっても、御神徳はうけられないものと思うて間違いない
神徳を受けていく人は、行き届いております、必ず、いつも不都合になる事がない様心掛けております、それで皆さん、不都合、不行届きだらけである自分をみてです、そこを、ひとつひとつ改めていく、
結局どういう事かと言うと、私共が信心になってないと言う事が、こんなにも、私の信心が荒い事が分からしてもろうて、そこんところを目細もうしていく信心から、私はおかげを頂いていかねばならんと、こう思う。
不都合、不行届があっては信用を受けかゝておっても、もう一辺に信用を落としてしまいます。これは神様からでも、人間からでも同じ、
例えば、一例を言うならば、借金でもしておるでしょう。これは私が、借金を負うておった時代ですけれども、神様は、必ず、どんなに行きにくかっても、神様は借金の断わりだけは行かして下さった。
それは、もう何遍も同じ事言って、断わりに行くと、大坪さん、又、うそ言いに来たやろうと 言う様にまで言われたのですけれども、それでも、やっぱり断わりに行ったのです。
もう本当は行けなかったのです、けれども神様が行けとおっしゃるから、行ったのですけれどもね。私は、そういう様な事が、いい加減にされては、ならないと言う事です。もう、よかよか主義じゃいかんと言う事。いわゆる、ここだけは神ながら主義ではいかんと言う事。
先日、高芝さんのところの奥さんが、仕入れ先から、矢の様な催促が来る訳です、ところが実際、一生懸命になるけれど出来んのです。もう、断る事が出来んのです。ですから、私が、お願いしとくけん、もう一辺断わりなさい、と言うとった。
そしたら今度は向こうが、手のひらをかやす様に、気持ちよう待ってくれる様になった、と言うのです、私共が信心で、神様がそう言うて下さるから、信心で、修行でそこを、高芝さんは、電話をかけたんです、ですからそこんところをです、もう神ながら主義にせずに、本当に行く事が辛いであっても、これは、お金借りとると言う事だけではありません、もう全ての事なんです、それを修行と思うて、私は、そこんところをね、行き届いていかなければならないと思います。
修行と思うて行届かしてもらわないかん。不都合が重なると、必ず信用を落とします、それではね、何事にも真心になっておるのではなくて、それでは、やはり御神徳はうけられない、
「信心する者は何事にも真心になれよ」ここで「信心する者は誰でも徳が受けられる」しかも、みてる事がない、と簡単に聞こえますけれども、ところが実際は、これだけ沢山な人が信心しよるけれども、徳を受けてないと言うのは、教祖がおっしゃるような信心ではないと言う事なんだ。
唯、信心しよると言うのは、拝みよります参りよります、と言うのが何十年続いとるだけなんだ。
「信心する者は何事にも真心になれよ」とおっしゃる、その信心になれてないと言う事、
それを、具体的な言葉で言うと、不都合、不行届の生活ばっかりしておると言う事、
不都合、不行届のない生活、そう言う私は、信心生活を目指してですね、お互いが信心をしておくなら、そして、信心、真心、神心と言う、信心の例えば、喜びとか、楽しみ、と言った様なものをです、頂く為に、いよいよ真心になり、いよいよ信ずる心を頂く為に、修行はいとわんとゆう修行精神を、旺盛にしてゆき、いよいよ自分の心が神に向っていく、自分の心が神心に段々深くなって行く事を、喜び、楽しみとしての信心にならなきゃならんと言う事が分かりますですね、 どうぞ